グレイズ・アナトミーで医療英語を勉強? ちょっと気をつけよう

英語圏、とくにアメリカの医療ドラマをみて、医療英語を勉強している方はすくなくないでしょう。私も「ER緊急救命室」などは熱心にみました。私が医療通訳をおしえた生徒のなかには「グレイズ・アナトミー」をみている方もいました。

医療ドラマは、ストーリーがあるので、楽しんで医療英語に接することができますよね。基本的には医療従事者のチェックがはいっているので、つかわれていることばにまちがいはまずないだろうという安心感もあります。わたくしがお世話になった元医学部教授が「ヘタな授業をうけるよりも『ER緊急救命室』をみたほうがよっぽど医学生にとっては勉強になる」といってましたから、ドラマによっては専門家からみても質がとても高いようです。

ただ、ちょっと気をつけなければいけない点があります。医療ドラマのなかでは、隠語(専門家同士の口語表現)がつかわれているということです。

日本の医療従事者の間でつかわれている隠語については、先日紹介しましたが、英語圏の医療ドラマでは、現場のリアルな感じをだすために、隠語がすくなからずつかわれています。しかも、隠語は隠語らしく医療従事者同士のシーンでだけつかってくれるのならばまだいいのですが、時として患者にむかって、隠語をつかうシーンがでることがあるのでこまります。

たとえば、「グレイズ・アナトミー」のあるエピソードでは、病院にかつぎこまれて、がんと診断されたばかりの患者にいきなり「mets」(転移)ということばをつかって説明するシーンがありました。患者役は質問もせずに、その説明をうけいれていましたが、実際のところ、どれだけ一般のアメリカ人が「mets」といきなりいわれて、ニューヨーク・メッツ以外のことをおもいつくのか、とても疑問です。

医療ドラマを真にうけて、医療通訳が隠語をつかってはいけません。当ブログでは、なんどもくりかえしてつたえていることですが、医療通訳は患者と医療従事者とのコミュニケーションの橋わたし役です(もちろん、医療通訳のなかには医療従事者同士の会議通訳にすすむ方もいるでしょうけれども、それは別の仕事です)。患者につたわることばを意識すべきです。専門用語ですらない隠語をぶつけても、患者にはまずはつうじないとかんがえるべきです。

そもそも、日本国内で医療通訳にたずさわると、患者の過半数はノン・ネイティブです。過剰にアメリカ的だったり、イギリス的だったりする口語表現はつうじないと心得るべきです。アメリカの医師がつかう隠語などをつかうのは、患者がアメリカ医療ドラマのファンであると期待するようなものでしょう。

とはいえ、医療ドラマをみるのは楽しいことです。参考までに「グレイズ・アナトミー」でつかわれている隠語をいくつかあつめてみました。

東京オリンピックが近づくなか、医療通訳による訪日外国人サポートへの関心が高まっています。ブログ『医療英語の森へ』を発信する医薬通訳翻訳ゼミナールは、独学では物足りない、不安だといった方のために、医療通訳・医療英語のオンライン講座もおこなっています。ご希望の方は当ゼミナール・ウェブサイトのお問い合わせページから、またはメールでご連絡ください。
隠語 専門用語・一般用語
mets metastasis/metastases
peds pediatrics
derm dermatology
OR operating room
wet lab skills lab
piggybag heart transplant heterotopic heart transplant. cf. orthotopic
vitals vital signs
appie, appy appendix, appendectomy (US)/appendicectomy
OB obstetrics
pit emergency room/ER
tox screen toxicology screen

取りあつかい注意! 医療業界の隠語

いわゆる業界用語(jargon)というのがあります。おなじ仕事やサービス、商売などについている職業人たちでなりたっている社会のことを業界とよび、その業界のなかだけで基本的にはつかわれていて、その業界のそとのひとには通じないことばを業界用語といいます。業界用語のおおくは、その仕事にあわせた専門用語(technical terminology)です。しかし、業界用語のなかには、業界のそとのひとにはわからないためにつかう、口語表現・単語(colloquial terminology)、いわゆる隠語があります。

たとえば、単語を反対によむテレビ業界の隠語などは、バラエティ番組などで、取りあげられることがおおいので、きいたことがあるひともおおいでしょう。飲食業界で「お会計」の意味でつかわれる「お愛想」という隠語は、いまでは業界だけにとどまらず、おおくのひとがつかうようになっています。

医療の世界にも、業界特有の隠語はあります。おおくは、英語やドイツ語の単語からうまれた口語表現です。ここでは、おもなものを紹介したいとおもいます。ただし、取りあつかいについては、要注意です。医療通訳として、医療の現場にはいっていくうえで、こういった隠語をしることは、現場の状況を理解するうえでたいせつだとおもいます。しかし、隠語はあくまで業界のなかだけでつかわれるべきことばです。「手術」をあらわす「オペ」などは、すでに一般の方もよくしっています。しかし、おおくの隠語を一般の方はしりません。

医療通訳は、医療従事者と患者のコミュニケーションをサポートします。患者につたわることばをつたえることがたいせつなのです。そして、患者は業界のひとではないのです。業界特有の隠語をしりはじめると、ついついつかいたくなってしまいます。しかし、その誘惑には勝たなくてはいけません。医療通訳にとっては、業界用語はつかうべきことばではなく、あくまで理解できることばでとどまるべきです。通訳の際に患者や医師にむかってつかったりしないよう、くれぐれも注意しましょう。

東京オリンピックが近づくなか、医療通訳による訪日外国人サポートへの関心が高まっています。ブログ『医療英語の森へ』を発信する医薬通訳翻訳ゼミナールは、独学では物足りない、不安だといった方のために、医療通訳・医療英語のオンライン講座もおこなっています。ご希望の方は当ゼミナール・ウェブサイトのお問い合わせページから、またはメールでご連絡ください。
医療業界隠語 専門用語・一般用語
アウス 人工妊娠中絶 透明なゆりかご」で取りあげられる
アッペ 虫垂炎(appendicitis)
アナムネ 既往歴 「アナムネをとる」「アナムネーゼ聴取」
アポ 脳卒中(apoplexy) 「アポる」
アレスト 心停止(arrest)
アンビ 救急車(ambulance)
エッセン 食事
エンゼルケア 死後処置
エンゼルセット 死後処置セット
エント ENT、退院
カットダウン 経皮的穿刺(percutaneous puncture/percutaneous venous catheterization)が困難な場合、切開して血管を露出させ、カテーテルを挿入すること
コアグラ 凝血 凝固: coagulation
コードブルー 患者の容態急変などの緊急事態が発生した場合に使用される救急コール
サマリ 病歴等の要約(summary)を記した診療記録の1つ. 「退院サマリ」「週間サマリ」「月間サマリ」などがある. 記載内容は診断名・転帰、入院時の症状・所見や治療内容、入院後の経過などの要約
ステる 死亡すること
ズポ 座薬(suppository)
ゼク 解剖、剖検、病理解剖
ゼグレート
ゼプ 敗血症(sepsis) 「ゼプる」: 敗血症でショック状態におちいる
ゾロ ジェネリック医薬品
タキ 頻呼吸: tachypnea. 頻脈: tachycardia 呼吸や脈が早くなること. 「タキる」
デクビ 褥瘡、床ずれ
デコる 心不全. 「デコる」
トンボ 点滴用の針
ナート 縫合
ネク 壊死(necrosis)
ネッパツ 発熱
ハイポ 循環血液量減少(hypovolemia) 出血などでおちいる状態
パンペリ 汎発性腹膜炎(panperitonitis) 汎発性腹膜炎とは、いわゆる腹膜炎のこと
ブラディ 徐脈(bradycardia)
ベジる 植物状態になる
ヘモ 痔(hemorrhoids)
ヘルツ 心臓、心臓病
マンマ 乳房(mamma) 乳がんを指すこともある
ムンテラ 病状説明
メタ 転移(metastasis)
ラウンド 病棟や病室内の見回り
ラパコレ 腹腔鏡下胆嚢摘出術(laparoscopic cholecystectomy)
ラプ 血管が裂けて(rupture)出血すること. 「ラプる」「ラプった」
ワゴる 迷走神経反射 痛みや緊張のために副交換神経である迷走神経反射が起こり、顔面蒼白、気分不良、嘔吐、失神などが引き起こされる状態

上にあげたほかにも、医療業界の隠語はいろいろとあります。幅広く取りあげたり、解説をしているサイトがいくつかありますので、紹介します。

医療通訳技能検定1次、今からでもできる2つの試験対策

いよいよ、明日にせまった医療通訳技能検定の1次試験。今からできる試験対策なんてないかと思うからもしれません。でも、2つのことを心がけるだけで、必要だったあと数点を手にすることができるかもしれません。では、その2つをみてみましょう。

かならず解答は書こう

試験をうけていて、答えに確信をもてないときがあるかとおもいます。そういったときでも、かならず答えは書くようにしましょう。検定試験の場合は、まちがった答えはバツになるだけです。ペナルティでマイナス点になったりはしません。答えを書かなくて空白のまま出しても零点、答えがまちがっていても零点なのです。確証が持てなくても、答えをかけば、正解である可能性がうまれるのです。その可能性をムダにしないようにしましょう。

さらに、答えを書けば、部分点がとれる可能性もあります。その可能性を見すごすべきではないでしょう。空欄をのこして試験をおえることだけはしないようにしましょう。みなさんは、検定試験をうけるまでに、相当の勉強をしてきたはずです。確証をもてなかったとしても、頭に浮かんできた答えが正解である可能性は低くないはずです。ぜひ書きましょう。

ぬけ、もれがないようにフラグをたてておこう

フラッグではなく、フラグとして、最近は日本語に定着した「flag」ですが、「フラグをたてる」とは、わからなかったところには、後でわかるようにしっかりとチェックをいれて「旗」のように気づきやすくしておくことです。

とくに和訳、英訳のときに有効です。たとえば、英訳をする問題のなかに、症状が列挙されていたとします。「頭痛」「発熱」「嘔吐」といったかんじです。いざ英訳をするにあたって「頭痛」と「発熱」はわかったけど、「嘔吐」が出てこなかったとします。そういった場合には、「頭痛」、「発熱」につづいて、「嘔吐」にあたる部分に、四角か、丸でも書いてスペースをつくっておくのです。そして、原文の「嘔吐」にも丸をつけたりしておきましょう。なぜかというと、ほかの問題を解きおえてから、もどって確認をするときに、どこを見直すべきか、かならずわかるようにしておくのです。

なお、こういったときに、最後までどうしても、確証をもってこれが「嘔吐」だという単語がでてこなかったとしても、かならず何かは書きましょう。ここまで、たくさん勉強したのですから、何かことばはでてくるはずです。自分を信じましょう。それに、部分点がもらえる可能性がでてくるのですから。

AIは医療通訳に取ってかわるだろうか (後編)

とおくない将来、それどころか、ごくちかい未来に、AI・ロボットが医療通訳に取ってかわるだろうと予測するひとが、すくなからずいます。前編では、ばく然とおおくの方がかかえている、この見方がはたして本当だろうかという点について、公開されている専門家・研究者たちのことばに耳をかたむけてみました。すると、専門家・研究者たちは、医療通訳どころか、通訳・翻訳といった職業もAI・ロボットがすぐに取ってかわることがあるだろうとはみていないことがわかりました。

ところで、わたくしは医療通訳という職業がじぶんの職業であるから、これからものこりつづけてほしいという希望的観測で「AIは医療通訳に取ってかわるだろうか」を書きはじめたのではありません。AI・ロボットが医療通訳に取ってかわるだろうとする議論には、医療通訳が支援すべき患者の方への視線がかけているとかんじたのが、この記事を書きはじめた動機でした。医師の職業倫理についての誓い(ヒポクラテスの誓い)を現代的なことばであらわした世界医師会のジュネーブ宣言のなかに「私の患者の健康を私の第一の関心事とする」(THE HEALTH OF MY PATIENT will be my first consideration)とあるように、医師は患者の健康を第一にかんがえています。チーム医療の一員として、医療通訳もおなじように患者の健康を第一にかんがえて行動すべきだとかんがえます。

後編では、医療通訳という職業に焦点をあてて、AI・ロボットについてのことを、もうすこし掘りさげてかんがえていきたます。なお、掘りさげていくうえでは、次の3点についてみていきたいとおもいます。

  • 医療通訳とはなんなのか
  • 医療通訳が患者に寄りそうとはどういうことなのか
  • 経済的なインセンティブのわな

医療通訳とはなんなのか

医療通訳という職業について当ブログでは以前、「医療通訳ってなんだろう」にまとめました。いま読みかえすと、ことばの橋渡し役としての役割に焦点をあてすぎているように残念ながらかんじてしまいます。まず、医療通訳は、ことばだけでなく、ことばをふくむ、コミュニケーション全般の橋渡し役といえるでしょう。さらに、日本の医療の現場(日本的医療文化といえるかもしれません)に不慣れな外国人患者と、医療従事者をむすぶ橋渡し役ともいえるでしょう(外国であれば、日本人患者と、外国の医療従事者をむすぶことになります)。

厚生労働省ウェブサイトの医療通訳についての資料ページで公開されている「医療通訳」というテキスト(9月中旬現在改訂版を作成中)の「医療通訳者のコミュニケーション力」(171ページ〜209ページ)には、医療通訳が現場で発揮しなければいけないコミュニケーション力のさまざま面がしめされています。

このなかでは、ことば(言語)だけでなく、非言語コミュニケーションが取りあげられています。非言語コミュニケーションには、表情やしぐさ、声の調子、間といったものや、パーソナルスペース(身体的な空間)といった、おおくの要素があります。さらに、比喩などは、言語コミュニケーションと非言語コミュニケーションの中間といってもいいようなものでしょう。日本人だったら、わかりやすいものも、外国の文化では、まったくちがった表現がたくさんあります。こういったものも、くみ取っていくことが医療通訳にはもとめられています。

さらに、医療の現場では、予想もつかないところに話がすすんでいくことがいくらでもあります。ある医師と話していたところ、たとえ話として「囲碁をしていたつもりで打っていたら、実は五目並べをやっていた」かのように、診察のなかで、事態が変化することがあるのはよくあることだということでした。

医師は、診察をするなかで、患者の健康を第一にかんがえ、常にいろいろな信号を受信するように、患者とコミュニケーションをしています。医療分野によって、AIが正確な診断に貢献したという例もあるようですが、医師がAIによってちかいうちにきえていく職業であるという見方はまだ限定的なようです。それは、医師が患者に共感し、しっかりとコミュニケーションしていくことが、診断・治療において重要だからです

医療通訳は、医師と患者のコミュニケーションを支援します。医師の重要な役割が患者とのコミュニケーションである以上、医療通訳者がすぐになくなるというのは、医療通訳の責務を「要は言語の通訳やっているだけなんでしょう」と狭くとらえられているからゆえの判断なのではないでしょうか。

医療通訳が患者に寄りそうとはどういうことなのか

医療の現場では、患者の「心」または「気持ち」を無視することはできないでしょう。患者は、おおくの場合、とてもつらく、不安な気持ちをかかえて、病院にきています。外国人でしたら、コミュニケーションの問題もありますから、なおさら不安でしょう。さらに、外国人患者のなかには、文化的な背景から、こういったつらさや不安を素直に口にすることをためらう方がすくなくありません(もちろん、日本人にもこういった方はいます)。医療通訳には、こういった「心」の動きや「気持ち」、察することがもとめられています。

医療通訳は、基本的に黒子ですから、前面にたって、患者の不安をやわらげたりすることはありません。しかし、患者のつらさや不安を感じとって、医療従事者につたえることで、患者の健康に貢献することができます。

AI・ロボットについては、こういった患者の「心」「気持ち」をくみ取っていくことができるのか、そもそもくみ取るできるのかということがあります。前編でみたところによると、「『察する能力』はゼロ」ということですから、AI・ロボットが「心」「気持ち」をくみ取るところにまでいくまでには、まだまだ課題が山積しているといえるでしょう。

経済的なインセンティブのわな

不安にかんじるのは、医療通訳の普及といった課題の解決が経済性を優先してAI・ロボットの導入などといったかたちで進められてしまう可能性です。「AIは医療通訳に取ってかわるだろうか」を書くきっかけとなった「AI・ロボットが医療通訳を不用にする論」がひろがる背景にも、こういった経済的な論理があるとかんじました。

そこで、経済的インセンティブのわなとして、人力にとってかわるAI・ロボットの導入がもたらす危険性についてみてみたいとおもいます。米国には、数十年前から普及している聴覚障がい者むけの字幕サービスがあります。最近では、AIによる字幕の自動作成が進んでいます。YouTubeなどの自動字幕機能で実感されている方もおおいでしょう。

しかし、AIで最先端を進んでいるとおもわれるGoogle傘下のYouTubeでさえ、質がたかいとはまだまだいえません。80年代後半にアメリカで学習用に個人的に利用していた経験からいうと、字幕の質の低下はおそろしいほどです。最近のアメリカのテレビ番組をみるとまったく話がわからないということがすくなくありません。視覚障がい者の側からみると、AI化によって、字幕サービスの質はここ30年でおおきく低下したといえるでしょう。これは、経済性を優先して、AI化をすすめたことによる弊害といえるでしょう。もちろん、長期的には性能が向上していくことが期待できるでしょう。しかし、長い目で見れば、一時的なこととはいえ、視覚障がい者がサービス低下を無理じいされているというのは、本末転倒ではないでしょうか。

おおくの医療施設はきびしい経営環境のなかにいます。そのなかで、医療通訳を医療サービスのひとつとしてくわえるとなると、AI・ロボットの導入といった解決策には、経済的なインセンティブがあります。わたくしは、AI・ロボットの可能性を全否定しているわけではありません。一つ一つ課題を乗り切った先にAI化というの可能性はあるでしょう。補完的には、すぐにでも導入できる分野もあるだろうと思います。

しかし、まずは手元の課題を一つ一つ乗り越えて行く姿勢が大切であると感じます。その時に大切なのは、まず「患者さんに寄り添う」という姿勢だとおもいます。医療通訳が主役なのではなく、患者が主役なのだということ、「私の患者の健康を私の第一の関心事とする」ということ、このことが大切なのだとかんがえます。経済性が優先され、患者不在の論理で、AI・ロボット導入などということがすすめば、そもそもなんのために外国人患者受け入れの環境をととのえるのかという話になるでしょう。

AIは医療通訳に取ってかわるだろうか (前編)

AI・ロボットが近い将来に人間から取りあげるであろう仕事が話題に

AIの採用というのは、各分野ですすんでいますし、これからもすすんでいくでしょう。ここ数年、各研究機関がAI・ロボットによって近い将来、どのような仕事が人間からうばわれていくであろうか発表しています。こういった話は、ニュースでもよく取りあげられています。とくに野村総研が数年前に発表した研究結果は、20年以内に国内の労働人口のほぼ半数がAI・ロボットによって取ってかわられる可能性があるということで、いまでもしばしば話題にのぼります。

翻訳・通訳の分野についていうと、Google翻訳や、Skypeの自動翻訳機能など、翻訳アプリの普及もあり、身近でAI・ロボットの進化をかんじることができることから、AI・ロボットによって席巻されるだろうとおおくの方がみなしているようです。個人的にも、なんどとなく、通訳という仕事はなくなるでしょうということをいってくるひとにあったことがありますし、私自身も、そうなるかもしれないなと、なんとなくおもっていました。では、それは事実なのでしょうか。仮に事実だとして、医療通訳の仕事もAI・ロボットによって取ってかわられてしまうのでしょうか。

通訳・翻訳はまだまだ人間の仕事と研究機関の調査

英国BBCのウェブサイトでは、どの職業がこの20年で(AI・)ロボットに取られてしまうか、その確率をしらべることができます。通訳者(interpreter)はでていませんが、それによると翻訳者は執筆者(Author、writer or translator)とともにしらべることができます。そして結果は意外に低く、”It’s not very likely (33%)”(可能性はそれほど高くない)とのなっています。

先ほど取りあげた野村総研の研究では、「代替可能性が高い」職種が100種あげられています。ここでも、翻訳者も通訳者も100種のなかにはいってはいません。こういった研究結果をみると、通訳・翻訳といった仕事がAI・ロボットに取ってかわられるという一般にみられる見方は、やや結論をいそぎすぎているようにみえます。

AI・ロボットが苦手なことは

なぜ、AI・ロボットによる通訳・翻訳の代替可能性が高くみられていないのでしょうか。その点について、まったく別の観点からかんがえていきたいとおもいます。AI・ロボットというと、最近発展がいちじるしいのが将棋ソフトの世界です。いまでは、名人にさえ勝ってしまうほど、将棋ソフトの性能は向上しています。そのなかでも、最強と言われるPonanzaというソフトがあるのですが、その開発者である山本一成氏は、インタビュー記事のなかで、AI・ロボットとこんごの職業のありようをかんがえるうえで、とても興味深い話をしています。

まず、「プロの真似はできても、プロが何を考えているのかは分からない」という前提で開発がすすめられたということです。つまり、ひとの内面をおもんばかることをやめたところに開発上の重要なステップがあったということがわかります。また、開発者は「コンピューターはものすごく頭が悪いですよ。特に『察する能力』はゼロですね」とはなしています。そして、ルールの例外について対応する力がまったくないという特徴を指摘をしています。

こういったAI・ロボットの分野で最先端をいっている将棋ソフトの開発者のことばに耳をかたむけると、AI・ロボットがどういったことが得意で、どういったことが苦手かということがみえてくるようです。ひとがあるルールにしたがってとる行動についてそれをまねて、かつ向上させていく(ちょうど将棋の力をのばしていくように)ことはとても得意としている一方で、ひとがある行動をとったときに、その行動がどのような内面的な理由にもとづいておこなわれているかを分析していくことは苦手だということのようです。

Google翻訳をみてみよう

ことばのコミュニケーションの場におきかえて、かんがえてみましょう。”What did you do that for?”という文を例にとりあげましょう。このところ評判がよくなっているGoogle翻訳をつかってみていきます。Google翻訳をたすけるために以下のとおり文章を作ってみました。

-She said, “What did you do that for?”
-She screamed, “What did you do that for?”
-She demanded, “What did you do that for?”

Google翻訳は、次のとおり、訳をかえしてきました(当ブログでは、iOSアプリのGoogle翻訳を使用しているので、Web上とは結果がすこしちがう可能性があります)。

-彼女は言った、 “あなたは何のためにそれをしましたか?”
-彼女は叫んだ。「何のためにやったの?」
-彼女は、「何のためにやったの?」と要求した。

ある行動の理由をたずねる”What did you do that for?”という質問も、その文脈によっていくつも訳し方があるでしょう。たとえば、とんでもない失敗をした人にたいして、批判としてなげかける場合など「なにやってんだ?」と訳したほうがすっきりすることもあるでしょう。上の例文では、失敗にたいする批判としてなげかけられたとの文脈をかんがえて、その文脈をつたえるために動詞を”said” “screamed” “demanded”とおきかえて、Google翻訳に入力してみました。訳をみてみると、ある程度、文脈をつたえていることに成功しているようにみえます。

文脈を言語化するのはむつかしい

そもそも、この<文脈>というものは、どのようにうまれているのでしょうか。この例文でいうと、どのように人のなかで処理されて、批判を口にすることをきめるのでしょうか。通訳者・翻訳者という立場からいうと、どのようなプロセスをへて、このことばは批判として訳すべきだ、このことばは単なる質問として訳すべきだと判断するのでしょうか。

ふたたび、Ponanza開発者である山本氏のことばをご紹介します。「人間は分かっていることをプログラミングに書くこと非常に困難なんです。知っていることを言語化するのはそんなに簡単なことじゃない……というか、ほとんどできないですね。」

コミュニケーションにおいて大切な「空気をよむ」ということの意味を説明することは、おおくの方ができるでしょう。しかし、「空気をよむ」という行動そのものを精査に言語化することができるでしょうか。とても困難でしょう。現実には、おおくの方が「空気をよむ」という行為を日常でこなしています(うまい、へたはもちろんありますが)。むしろ、この行為ぬきには、円滑にコミュニケーションをとることはむつかしいでしょう。

通訳・翻訳は異言語間のコミュニケーションの橋渡し

通訳・翻訳は、異言語間のコミュニケーションの橋渡しをするという、まさにコミュニケーションの仕事です。明確なルールがきまっているわけでなく、その場、その場で判断をくだし、ルールそのものも調整していく可能性をふくむ職業ですといえるでしょう。<受容化・同化>(domestication)と<異質化・異化>(foreignization)の課題など(この課題についてはいずれ、当ブログでふれたいとおもいます)、判断基準の明確な基準がないままにこなしていかなければいけないのです。

AI・ロボットが翻訳・通訳をこなす時代がいつかこないとはかぎりません。しかし、AI・ロボットがこなさなければいけない、コミュニケーションという行為そのものの説明がまだまだつかないのに、すぐにそういった時代がくるとかんがえるのはやや早計ではないでしょうか。後編では、医療通訳の分野におけるAI・ロボットの可能性についてかんがえてみたいとおもいます。